私は善良な人間の自己犠牲は世界の損失だと思っている。
ここでいう善良な人間とは、積極的に人助けをしたり、人の内面に寄り添いケアをするような、世界の幸福の総量を増やすような人間のことを指す。
大前提として、私は彼ら彼女らのことを心の底から尊敬しているし、自分も可能であればそうありたいと願っている。
彼ら彼女らと毎回つけていると話しにくいので、ここからは便宜上彼女らと呼ぶようにする。(女性をメインにしたのは、体感的に女性の方がこういった方が多いと感じた私の主観ゆえである)
彼女らは素晴らしい人間であると思うが、同時に思考回路に致命的な欠陥を抱えている人が多いと思う。
それは、多くの場合、幸せにする対象に自分が含まれていないことだ。要するに、自己を犠牲にしてまで人助けに走る人が多いのである。
だが、これは彼女らにとっても、ひいては世界にとっても大きな損失だと思う。
彼女らの理屈はこうだ。『私自身には価値がないから、自分自身を削ってでも他人に分け与えた方が世界のためなのだ。』
彼女らに価値がないかどうかは主観的なものなので、ここは置いておくとして、私はこの考え方は非常に危ういのは当然として、彼女らの目的である『誰かを幸せにする』という行為そのものを阻害しているように思う。
もちろん直接的な阻害ではない。だが、彼女らが自己犠牲に走ることによって、目に見えないところで世界の幸福の総量が減っている。
彼女らの一般的な理屈を数字で表してみよう。
ここでは、誰かの幸せ、すなわち幸福量の増加を彼女たちの至上目的であると仮定する。また、彼女たちの使えるリソースをわかりやすく食べ物で例えよう。
過不足のない食べ物の量を5とし、それ以上は余剰食料であると定義する。
まずは、なんの問題もない人助けの例を見てみよう。
まずAさんが6の食料を持っていたとする。その6の食料を4しか食料を持っていないBさんに分け与える。これによって、2人とも過不足のない食料が手に入り、十分な栄養を補給することができる。これは非の打ち所がない完璧な人助けであると言える。
自分にとっては余り物である食料によって、1人の人間の空腹を十分に満たすことができたのだ。どうせ余る物なのだから、自分が食べるよりも、誰かに与えた方が有意義であると考えても自然であろう。もちろん、Aさん自身にもほぼダメージが無い。
ましてや、現実においては貯蔵の効く食料ではなく、流動性の高い労力や気力というリソースで人助けを行う。放っておいても基準値に戻る(腐ってなくなる)ことがほとんどと考えると、無駄にするよりは有意義に使った方が、誰にとっても幸せであろう。
だが、現実では彼女らは次のような人助けをする。
まず、先の例と同じようにAさんは6の食料を持っている。
だが、今回は困っている人が複数人いる。Bさん、Cさん、Dさんだ。BさんとCさんはそれぞれ3の食料を、Dさんに至っては1の食料しか持っていない。
こんな時、彼女らはこのように振る舞いがちである。まず、BさんとCさんに1ずつ食料を与え、Dさんに2の食料を与える。すると、Aさんの手元には食料が2しか残らない。
まあ、それで死ぬことは滅多にないから、Aさん視点ではこれで良いのかもしれない。十分とは言えないまでも、3人に対して支援を行い、自分が食料を失った分以上に彼らは満たされた。自分が誰かを助けたのだと実感することができる。
Aさんは空腹よりも他者の幸せを優先する精神力があるため、その瞬間は満足できる。実際、Aさんの感覚が麻痺していることまで考慮すれば、世界の幸福の総量はこの瞬間は増えたと言えるだろう。
一見、これでAさんが苦痛を感じない前提であれば、完璧な人助けであるようにも見える。だが、この考え方には、ある視点が致命的に欠けている。
その視点とは『継続性』である。リソース、幸福度という尺度に、継続性という物差しを加えると、話が全く変わってくる。
まず、大前提として、人間のメンタルとは、リソースが不足すると健全な状態を保てないようにできている。
寝不足だとイライラするし、金や食料がなければ犯罪に走る。これらは、データによってある程度裏付けのある話である。
そして、人助けとは、基本的に健全なメンタルから生まれるものである。本気で自分に余裕がなくなれば、人助けなんてしようとは思わなくなるし、他人を蹴落としてでも生き延びようと感じるようになる。
つまり、健全なメンタルを損なった時点で、人格者であろうとも、人助けをやめてしまう可能性が高い。
このことを考慮すると、人助けの『継続性』を担保することが、いかに大切か理解できてくるはずだ。
月並みな例えであるが、マラソンで考えるとわかりやすい。
マラソンで自分の身体のことを顧みず、最初から全力疾走をしていれば、速度を落とさない限り、数キロも走れば倒れて立ち上がれなくなる。
だが、自分のペースでコツコツ走る人間は、最初こそ差をつけられるものの、着々と距離を稼ぎ続け、前の人が倒れた地点を越えて、遥か先のゴール地点まで辿り着くことができる。
この走行距離を、人助けをした人数や、増やした幸福度の量に置き換えると、善良な人間の自己犠牲が、いかに大きな世界の損失かわかって貰えると思う。
人生は長いので、わかりやすく、長距離マラソンで例えよう。
まず、全力疾走でフルマラソンを走り切ろうとすれば、かなり屈強な人間でも、10キロも走れば倒れて動けなくなるはずだ。
だが、かなりゆっくりなペースで走る、極論歩いたり途中で宿を取ってもいいというルールであれば、例え小学生であっても42.195キロを完走できるはずだ。
この走行距離を1キロ=1人助けで換算した場合、死ぬまでに助けた人数は10vs42でおよそ4倍となる。
最初から全力疾走した場合は、短期的にはかなりの距離を稼ぐことができるが、その分自分の肉体を酷使することになり、最終的には肉体が付いてこなくなる。人助けで言えば、限界まで自己犠牲を重ねている状態である。そのうち倒れて立てなくなり、人助けなんてできなくなるのは必然と言える。
ゆっくり走った人間は、途中で宿を取ったり、歩いたりしているのだから、基本的に無理なことはしていない。単に、余力の範囲で前に進んだに過ぎない。
だが、最終的には自己犠牲を繰り返すよりもずっと遠くまで辿り着くことができる。
つまり、人助けを人生というとても長いマラソンで考えた場合、自己犠牲などしない方が遥かに効率が良いのだ。
今この瞬間自己犠牲をするということは、これからの人生で助けることのできた30人を見捨てることと同義であると言える。
人助けを息をするように出来る人はそれほど多くない。善良な人間が自分を使い潰すことは、人類にとっての損失なのである。
私が例に出している善良な人間は、恐らくこの記事を読んでも、自分はそんな善良な人間ではないと感じると思う。
だから私は全人類に対して『自己犠牲はやめろ』と言いたい。自己犠牲は悪だ。
みんなが自己犠牲をやめて、自分に存在する余剰リソースのみで人助けをするようになれば、世界の幸福の総量は今よりも増え、人助けをするような善良な人間の幸福度も含めて、全ての人間が幸せに近付くと私は信じている。
今回の記事を通して、私が伝えたいことは1つだ『自己犠牲をやめよう。でも、人助けはやめないで。』たったこれだけである。
自己犠牲の定義については今回ちゃんと煮詰めることができていないため、多少ふわっとした結論になってしまったが、少しでも私の伝えたいことが読者の皆様に伝わっていたら幸いである。
また、この記事を読んで、おかしな所や矛盾点があった場合、遠慮せずにコメントでガンガン指摘して欲しい。もちろん共感のコメントも歓迎だ。
私より優れた考えを取り入れることで、私は更に考えを昇華させ、更に高レベルな思考を手に入れることができる。それは、私にとって何よりの喜びである。
ぜひ、あなたの意見をコメントで聞かせて欲しい。あなたのコメントを楽しみにしている。
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